スピリチュアルの学びと心地よく向き合うために
スピリチュアルの学びや、心を整えるための集まりに参加しているとき。
はっきりとは言葉にできないけれど、「なんだか違う」「少し苦しい」と感じる瞬間はありませんか?
それは、誰かが悪いとか、何かが間違っているという話ではありません。
ただ、自分の内側が何かを敏感に感じ取っているという、大切なサインです。
最近、私自身もそんな体験をしました。
私が本当に大切にしたかったもの
その日、私がその場に求めていたのは、静かに心を整えることでした。
祈りや瞑想のように、意識を深く内側へ向ける時間。
日常の喧騒から離れ、自分の内面と向き合い、感謝を深める。
そんな「静寂のひととき」を持てることを期待して参加したのです。
しかし、実際に始まった時間は、私が求めていたものとは少し違う流れでした。
場を流れる言葉の選び方や、どこか外側へ向かっていくエネルギー。
時間が経つにつれて、私の心には少しずつ違和感が積み重なっていきました。
身体が先に、答えを出していた
そんなとき、私の身体は驚くほど正直でした。
だんだんと胃が重くなり、座っているのが落ち着かない感覚が続いたのです。
無理をしようとしているときや、本心とは違う選択をしているとき、
身体は思考よりも先にサインを出してくれます。
頭では、
「せっかく参加したのだから」
「これも一つの学びなのだから」
と自分を納得させようとしていました。
けれど、身体の声ははっきりと「今はここに居るべきではない」と教えてくれていたのです。
「投影」なのか、それとも「成長」なのか
スピリチュアルの世界では、よくこんな言葉を耳にします。
「相手に違和感や嫌悪感を抱くのは、自分の中にあるものが映し出されている(投影)からだ」と。
私もその考えを知っていたからこそ、慎重に自分に問いかけました。
- これは、私の中に同じ種があるから嫌なのだろうか?
- 私が単に否定的な気持ちになっているだけだろうか?
- 私の心が狭いから、受け入れられないのだろうか?
自分の内側を静かに、深く見つめ直しました。
そしてたどり着いた結論は、投影でも、僻みでもありませんでした。
それは、「私の中に、確かな基準が育ってきた結果」だということ。
・祈りや瞑想の時間には、混じりけのない純度を大切にしたい
・学びを深めてきた今だからこそ、その「在り方」を大切にしたい
・誰かを下げたり、自分を大きく見せたりする言葉は、今の私には必要ない
そんな価値観が、いつの間にか私の中にしっかりと根づいていたのです。
以前の私なら流せていたことも、今の私にとっては「大切にしたい核」と
ズレるようになっていた。
つまり、違和感は私が自分の足で立ち始めた証(あかし)だったのです。
離れることは、誰かを裁くことではない
最終的に、私はその場から距離を取る選択をしました。
でもそれは、その学び自体を否定したわけでも、そこにいる誰かを
裁いたわけでもありません。
- 自分の心と身体の感覚を、何よりも信頼すること
- 学びの本質を、理論としてではなく、自分の人生の中で体現すること
そのための、前向きな選択でした。すべての場に居続ける必要はありません。
自分に合う場所、今の自分が誠実でいられる場所を、自分で選んでいいのです。
違和感は、あなたを導く「光」になる
もし今、あなたが何かに参加していて、理由のないモヤモヤを感じているとしたら。
「このままでいいのかな」と、心や身体が重くなっているとしたら。
どうか、その感覚を「自分の未熟さ」のせいにしないでください。
違和感は、あなたを責めるものではなく、「次のステージへ進む準備ができたよ」と教えてくれるサインです。
スピリチュアルの学びを大切にするとは、誰かに従い続けることではありません。
自分の内側が静かであること。自分に対して誠実でいられること。
そして、日々の生活の中で心が自然と整っていくこと。
その心地よさの中にこそ、真の学びが息づいているのだと、
今の私は感じています。
この経験が、同じような戸惑いの中にいる方の、安心や気づきにつながれば嬉しいです。